「誰も中身を思い出さないかもしれない古いトランクが、どうしてこんなにも圧倒的な実... #エッセイ

「誰も中身を思い出さないかもしれない古いトランクが、どうしてこんなにも圧倒的な実存の重みをもって僕の前に横たわっているんだろう。」

濡れた古い煉瓦から独特な土の匂いが立ち上り、錆びついた排水管からポタポタと不規則な水滴が滴り、巨大な熱帯シダ類の葉が暗い緑色の複雑な影を落としている、梅雨の夕暮れ時の古い植物園の温室裏。

カメラのレンズを極限まで近づけるミクロの視点のなか、長年愛用されて、表面に無数の細かい擦り傷を刻んだ古い革のトランクの、あの油の染み込んだ独特の質感をありありと確かめている凪の時間。

「古くて傷ついたものには価値がない、もっと頑丈で新品のシステムに買い替えるべきだ」という、利益や効率ばかりを最優先で競わせる現代社会の冷酷な品定めが頭をかすめる。

完璧な強さで武装し、一切の隙も見せないように張り詰めていた、あの過度な適応のための感情労働を強いられていた過酷な日々の終わりを、今夜、自らの明確な意思で告げる自治の勇気。

その摩耗した傷つきやすさや、他人のロジックでは要約できない不揃いなきしみを、生身の魅力としてそのまま無条件に受け容れてあげるセルフケアのいとなみ。

それは、まるでレコードの針が最後の溝を回り終え、静かな摩擦音だけをリピートし続けているときのような、あの圧倒的な空白と安全感のなかへ身を投じることに似ている。

社会の正解のパレードから外れてしまったというかすかな罪悪感と、ようやく自分だけの静寂を取り戻したという深い安堵感が、胃の腑の底で混ざり合っている感覚。

頭のスマートな理屈を一度保留にして、からだが発している言葉未満のつぶやき(フェルトセンス)の傍らに、ただ判断を挟まずにつき合う。

衣服の繊維が擦れ合うササァという小さな摩擦音を皮膚の表面でありありと確かめる。

その割り切れないもやもやを抱えたまま、ただ今夜を明かす。

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