かつて凍てつくような冬の深夜、...

かつて凍てつくような冬の深夜、暖房の効きの悪い安アパートの片隅で、スマートフォンの画面越しに途切れることなく送られてくる友人の悲痛なSOSの文字を凝視していた。

かすかに漂う古い淹れ古したコーヒーの苦い匂いと、暗い部屋を非情に照らす液晶の青白い光のなかで、私の指先は冷たくこわばり、みぞおちのあたりが石のようにずっしりと重くなっていたのを覚えている。

「私がいなければ、あの人は本当にダメになってしまうかもしれない」という、どこか悲壮で健気な使命感。

その甘美で危うい義務感の檻に自らを閉じ込め、相手の濁流のような感情の泥濘に自ら飛び込んでいたのだった。

しかし、深夜の静寂に時計の針の音だけが冷酷に響く空間で、ふと自分の呼吸が極限まで浅くなり、肺の奥がキュッと縮こまっている微細な身体の警報(フェルトセンス)に気がついた。

荒れ狂う嵐の海で、他者を必死に引き上げようとして、実は自分自身の足元がすでに底なしの絶望へと沈み込んでいたのだろう。

本当に今、溺れかけて救いを求めていたのは、他ならぬ自分自身の乾ききった魂ではなかっただろうか。

他人のドラマの重荷を肩代わりして救世主に祭り上げられる Doing の空回りを一度ピタッと止め、スマートフォンの電源を落としてみる境界線の知恵。

相手を救うための透明な救命胴衣を、まずは今日、過剰適応で擦り切れ、悲鳴を上げている自分自身の心と身体に無条件で着せてあげるべきだ。

布団の温もりに冷え切った肉体を委ね、吸って吐く生きた呼吸の波に主権を戻していく Being の贅沢な時間。

張り詰めていた皮膚の緊張がふっとほどけていくのを感じるとき、内なる泉には穏やかな凪の模様があたらしく綴られ始める。

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