共依存で身を削り尽くした私が、「自律」という冷たい優しさにたどり着くまで

 



「私がいなきゃ、この人はダメになる……絶対にダメになってしまう…」

暗がりの中で、そう唇を震わせながら呟く、自分の声を聞いていた夜があった。

静まり返った深夜2時、冷え切った六畳間の畳の上に膝を抱え、スマートフォンの青白い光で青ざめた自分の指先を、ぼんやり照らす。
通知音ひとつに心臓がドクンと跳ね上がり、返信が来ない数十分の間に、胃の奥が、ぎゅっと固く絞り上げられる……

冷や汗が背筋を伝う不快感と、壊れたら発狂してしまうのではないかという吐き気のような不安に耐えながら、息をひそめていた記憶が、今も生々しく肉体に刻まれていた。
……いや、刻まれているというより、本当は胸の奥深くに鍵をかけて、それどころじゃないと、到底、見ないふりをしていただけなのかもしれない。

窓の外では、秋から冬へと移り変わる冷たい雨が、ガラスを濡らす微かな音だけが響いていた。ネットの海や分厚い心理学の本の中で、時折このような言葉を見かけるときがある。

「共依存は、愛などではない」
「お互いの依存に、依存しているだけの不健全な関係だ」

主張の意図も分かる。当然の正論なのだと感じる。
……だが、どこか無機質で綺麗なその言葉は、当時、なんだか無性に腹立たしく、不快感すら覚える代物でもあった。

「お前に、この地獄の温度の何がわかる」と、暗闇の中で毒を吐きたくなるような不条理。
かつての私のように、その関係の深い海底で溺れ、喉が焼けつくほど酸素を求めてもがいていた人間にとって、この言葉は「残酷に切り捨てようとする表現」でもあった。

救いがないどころか、暗闇の中で必死に呼吸しようとしていた自分の存在や、血を吐くような想いで注いできた感情のすべてを全否定されたような、底なしの絶望感で肩から下が冷たく縮こまるからだ。
相手の白く強張った頬や、引きつった唇、あからさまな溜め息の湿度に怯えながら、「今すぐその手を手放したら、私は冷たい闇の中に落ちて、命を落としてしまう」

── そう身体を震わせているときに「それは愛じゃない」と、バッサリ切り捨てられるとしたら、反論しない笑顔の裏にある、怒りのようなギリギリした感情は内側では計り知れない。

しかし、散々その泥沼を這いずり回り、爪を割られ、ボロボロになりながら逃げ延びてきた今の私は、こうも感じている。
共依存は、間違いなく「終わりの始まり」なのだ。

…… そうとしか言えない破滅への現象を、何年かおきに繰り返すかのように痛感してきて、その度にかけがえのないものを失い、消せない深傷となってきた。

正論を振りかざして、誰かを裁きたいわけではない。その逆だ。
「現実世界で、本当に生き残れる術は何なのか」を突き詰めたとき、私たちが最後にたどり着くかもしれない小さな気づきについての話を、部屋の静寂の中で静かに綴ってみたいと思う。

「共依存は愛じゃない」という言葉が、なぜこれほど痛いのか

あの言葉が冷たい刃のように、私たちの柔らかな心を削るのには、切実な理由があると思う。
それは、当事者にとっての共依存が、単なる悪い癖や不健全な関係性の病などよりも、「毒だと分かっていても、吸い続ける酸素マスク」になっているからだと感じている。
誰かに必要とされる体感でしか、氷のように冷え切った自分の存在価値を温められない…という…

相手の機嫌や状態に寄り添う行動でしか、背後に迫る、真っ暗な孤独の恐怖から自分を守れないのだとしたら、それは…
……なんとなく変だな、おかしいなとは、うっすらと消え飛ぶ絹のように、勘づいているところは、どこか奥のほうに沈殿するかのようにないだろうか…

夕暮れの部屋に冷たい影が伸びていくのを見つめながら、理由のない胸騒ぎに怯えながら、どこか気づかないふりをしていたのではないだろうか。
共依存的な繋がりは、人生の過酷な嵐を凌ぐための「一時的な緊急避難所」だったかもしれない。
激しい雨風から身を寄せ合い、お互いの体温だけにすがりついて生き延びてきた原体験が、私たちにはあったはずだ。
そう思わなければ、あの夜を越えられなかっただけなのかもしれないが…

本人としては、必死だ。
相手の顔色や挙動という刺さるような針に震えながらも、血の滲むような思いで相手を想い、繋ぎ止め、額に冷や汗をかきながらその日の自分を生き延びさせている…
そこには間違いなく、本人なりの命がけのヒシヒシとした情熱が存在する。

本当は「相手を救いたい」という高尚な思いよりも、「自分がひとりになるのが、寂しくて、情けなくて、怖くてたまらない」というような醜い自己保身だったとしても、その恐怖だけは本物だったのだ。
そんな崖っぷちの絶望的な状況で、第三者から「それは愛じゃないよ、依存だよ」「そんな歪んだ、酸素マスクは捨てなさい」と冷ややかに言い放たれたときのショックは、言葉にならない…

まるで、氷水の中に突然突き落とされて、肺の空気をすべて吐き出して崩れ落ちるような感覚がする。冷たい雨に打たれて震える捨て猫みたいに、心がぎゅっと小さく縮こまってしまう。
「正論」はときに、逃げ道をすべて塞ぐ冷酷なナイフになり、受け取る側からすれば「存在そのものを切り捨てられた」という、深い傷と恐怖しか残らないのだと感じる。

胸が締め付けられるほど痛むのは、当然だ。私たちが冷たい手で必死で掴んでいた蜘蛛の糸は、それほどまでに、命を繋ぐための切実な綱だったのだから ──

それでも私は「終わりの始まり」だと、痛感した

だが、自分の身を散々削り尽くし、相手が変わっても、まるで数年周期で訪れる発作のように同じ泥沼を繰り返す度に、私は残酷な現実にぶち当たった ……

相手が変われば、今度こそ違うはずだと信じた。
この人となら、この人となら、きっと健全に愛し合える、と真剣な期待を抱いて、新しい扉を開く。伴に、未来を創ろうとする。
……だが、2年、3年と歳月が流れるうちに、気づけばまた、同じ冷たい暗がりの中で胃を痛め、奥底では怯える私たちがそこにいた。

自分の中に刻まれた呪いのようなパターンが、舞台や相手を変えて、何度でも再現される不条理。
一時的な避難所としては命を繋ぎ合った関係であっても、そこに永遠に住み続けるのは難しくなっていく ──

どんなに切実であろうと、どんなに相手を大切に大切に想っていようと、共依存という構造は「緩やかな共倒れ」に向かってしか進まないという、普遍的な流れが、奥深く横たわっている。

依存している最中は、強い麻酔薬のように自己効用感が働き、胸の痛みを一時的に麻痺させてくれる。
自分が「誰かの暗闇を照らす、唯一の主人公」になったような錯覚に酔いしれ、心のぽっかり空いた空洞が満たされたような気分にもなる。

その引き換えに、その麻薬は足腰をジワジワと腐らせ、相手も自分も、自らの足で立ち上がる動作も困難にしていく …
まるで、古い包帯をずっと巻きっぱなしにして、皮膚の奥が湿気で腐敗していくのを見ないふりをするように ── 

一度「もう、やめよう」と決意してスマホを伏せても、数時間後には寂しさに耐えかねて、這うようにして自分から連絡を入れてしまう。
そんな、内心で情けないような揺り戻しを正当化しながら、何度も何度も繰り返し、その夜の静けさになるたびに、自分という人間への嫌悪感で胃液を吐きそうになった。

誰かからの承認や要望ばかりを伺い、相手が負うべき人生の重荷まで自分の細い背中に背負い込み、自分の悲鳴や生活を後回しにする。
そうやって「自分の足で立つ力」や「自分と他者の間に境界線を引く力」を削ぎ落とされていくと、気づいたときには自分の人生のハンドルを他人に握らせたまま、暗闇の崖に向かって暴走する展開に陥る…

「支え合っている」と信じ込んでいた相手と伴に、泥の底へ深く沈んでいく。鉄の味がする口元でお互いの傷口を舐め合いながら、互いの命を削り続ける ──

これが、私が散々体験して知った「終わりの始まり」の生々しいリアルだったように思える。
私たちが、この胸の違和感を無視し続けた先にあるのは、やはり、逃れられない悲劇なのだと実感する。

なぜ、共依存は現実世界で「詰む」のか

道徳や倫理の美徳というよりも、なぜ共依存が破綻するのか、理由はとても冷静でロジカルなのかもしれない。
最大の原因は、共依存が深刻な「認知の歪み」という重い目隠しをかぶせ、現実に生きる力を失わせる点にある。
共依存に陥ると、脳内に強力な偏ったフィルターがかかってしまうようだ。

  • 「この人には、私がいないと生きていけない」
    (過剰な全能感という、眩しい幻覚)

  • 「相手に必要とされない私には、何の価値もない」
    (自己を無に帰す、悲鳴のような感覚)

  • 「私が身を削れば、すべてうまくいく」
    (自己犠牲という名の逃避行動)

このフィルターを通してしまうと、目の前にある「生身の現実」が見えなくなる。
擦り切れて悲鳴を上げる自分の身体の限界、重くのしかかる経済的な問題、本来大切にすべき生活、相手が自分を削り取っている残酷な真実 ──
そういった厳しい現実から目が背けられ、適切な対処ができなくなっていくのだろう。

どこか頭の片隅で「これって、マズいんじゃないか……」と薄々感じていたり、頭では「このままでは破滅だ」と叫んでいるのに、感情が「でも、あの人を見捨てたら私は……」とすがりついて離れない。
理性と本能が真反対に引っ張り合い、心がちぎれそうになりながらも、一度車輪が狂い出すと、不可逆的に止められないのだ。

さらに構造上の課題として、「共倒れの不可避性」が挙げられる。
互いに自律した人間同士の関係は、言わば「2本足で立った2人が、並んで歩いている光景」だ。片方がつまづいても、もう片方が腕を支える動きができる。

しかし、共依存は、「お互いに寄りかかり合って、斜目で奇跡的にバランスを取っている組木」と言える。
木枠がギシギシと悲鳴を上げて支え合っているように見えて、実はどちらか一方が限界を迎えて崩れた瞬間、2本とも地面に叩きつけられて、粉々になるリスク設計になっているのだ。
現実世界という厳しい風雨を生き抜くシステムとして、あまりにも弱く、脆い構造と言わざるを得ない ──

「自律的な愛」という、泥臭く冷たい生存戦略

ここで、私たちが生き残るための方向性について考えてみたい。
自律や境界線という言葉を聞くと、どこか冷たく突き放されたような寂しさを覚えるかもしれない。
「誰にも頼らずに、一人で孤独に生きろという教えか」と、身体が強張ってしまう感覚もあるだろう。

だが、決して「孤立しろ」と言いたいわけではない。
散々泥をすすり、膝をすりむいてボロボロになってきた一人の当事者として感じるのは、自律とは自分を冷たく突き放す行動よりも、お互いに潰れることなく「正しく頼り合う(健全な相互依存)」ための、泥臭い、唯一の生存戦略なのではないか、ということだ。

自律的な愛とは、相手を冷酷に拒絶する振る舞いではない。
「私は、私の足で立つ。相手にも、相手の足で立ってほしい。」
「その上で、温かい手をつなごう」という、しなやかな境界線(バウンダリー)を引く意識だ。

相手の課題を代わりに背負い込む、過剰な干渉を手放す選択。
自分の人生という重荷の責任を、自分自身の肩で引き受ける覚悟。
これは人によっては、一時的に皮膚を剥がされるような冷たさと、胸が割れるような寂しい感覚に思えるかもしれない。

明日いきなり、綺麗に立ち上がる状態なんてできなくて自然だし、命綱を手放す瞬間は、誰だって恐怖で足がすくみ、呼吸が浅くなる。
……私も、未だにふとした夜、あの慣れ親しんだ泥の温もりに戻りたくなる衝動と格闘している。格好よく乗り越えたわけでも、綺麗な聖人になったわけでもない。

だが、ミリ単位でも自分の足腰を鍛え直し、自分の足裏で、冷たく濡れた地面を泥まみれになりながら踏みしめて歩けるようになったとき、初めて、胸の奥まで深く空気を吸い込めるのを実感する ──
まるで、長い水没から浮き上がって、久しぶりに、朝のフレッシュな空気を胸いっぱいに吸い込んだときみたいにね。

「誰かにしがみついて自分を消さなくても、私はこの世界で生きていける」という、お腹の底から湧き上がる圧倒的な安心感を。
その安心感があって初めて、相手を鎖で縛り付けることなく、本当の意味で相手を尊重し、お互いに安全に頼り合える「しなやかで、確かな関係」を創れるようになる ──

かつて、共依存が命綱だった場合、今すぐ手放せない自分を責める必要はないのかもしれない。私たちはただ、それしか猛毒のような孤独から身を守る方法を知らなかっただけだ。
一時的に、その場所に避難していた自分を、温かく抱きしめてもいい。
そうして、もしいつか、「もう、こんな緩やかな舐め合いからの終わりの始まりは嫌だ」と、本気で心が悲鳴を上げているのなら ── 

一見すると冷たく見える「自律」という選択肢を、自分の命と本当の愛を守るために、少しずつ選んでみる手もある。
夜が明けて、新しい風が部屋を吹き抜けていくように ──



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