星空と調和する、知的謙虚さの佇まい

洗濯機が出始めた時代 ──
「洗濯板で手洗いするのが、大事。そうしてこそ、愛情よ」
ワープロが出始めた時代 ──
「余計に時間がかかるし、手書きが大事。ワープロにすると、なんか硬い」
前者は、親がその親から言われていて、後者は、私が直接に当時の上司から言われたものだ。
時が経ち、いま、そのように言う人も、思う人も、私は見かけたことがない。
何なら、そのように言っていた人すら、当たり前のように使っている。
あれは、一体、何だったのだろうね…
── 時代が移り変わる背景と、その裏にある理由
もちろん、開発・販売に関わる企業の目論見というのもあるだろうが、それだけではないだろう。
洗濯機に変えたことで、洗濯板での手洗いにかかっていた時間を、他の大事なことに使えるようになったり、沢山することがある中、束の間の休憩も取れるかもしれない。
今の時代、洗濯機がないと、到底、家事も育児も仕事も間に合わないし、洗濯機が発達したことで、洗濯板でゴシゴシ洗うよりは衣類も長持ちするようになったかもしれない。
ワープロにしても、メール、SNSなどが必須の中、手書きにしている時間はない。
もちろん、洗濯板も手書きも、それはそれで価値があったし、例えば、広告でも手書きにすると、レスポンスが上がりやすいというのもある。
(いくつかの限られた事例のなかでは、確かに今でも有効なのかもしれないが、それも、すべての場面に通ずるわけではない。)
だが、そうした、かつての道具の手触りにあった、ある種の温もりを完全に否定したいわけでもない。
手間をかける時間のなかに、確かに宿っていたはずの、言葉にできないほど微細な愛着を、私たちはただの非効率として、手軽に切り捨ててしまってよいのだろうか。
そう自問する瞬間、私の心のなかに、少し立ち止まるような、静かな躊躇いが生まれる気がする ──
── 不便さの美化と生々しい痛み
しかし、そうやって「昔は良かった」と道具の手触りを惜しむこと自体が、現在の便利なインフラに寄りかかった、独りよがりな美化にすぎないのではないか、とも思い直す。
不便だった時代には、凍える水で皮膚をあかぎれにしながら立ち働いた、生々しい肉体の痛みや過酷な労役が確かに存在していたと聞かされてきた。
その過酷な現実から目を背け、ただ「愛着」という美しい情緒のベールですり替えて懐かしむなかに、ある種の甘えや、特権的な欺瞞が潜んでいるような気もしてくる。
── 境界線の向こうにある寂しさ
それはきっと、新しい技術への盲目的な恐怖というよりは、自分が慣れ親しんできた世界の輪郭が、目の前で音を立てて崩れていく瞬間に伴う、寂しさなのだと思う。
未知なるものに直面したとき、人は無意識のうちに、不便さのなかに宿っていた情緒を美しい愛情や、こだわりなどの大義名分ですり替えて、自分自身を守ろうとする性質があるのだろう。
だからこそ、洗濯板や手書き思考を、ただの頑迷さとして揶揄(やゆ)するばかりでは、そこから新しく生まれる大切な価値の本質には、決して辿り着けないのかもしれないね。
なぜなら、その変化の裏側には、単に人間が楽をしたいという怠惰ではなく、生き延びるために、もっと別の形で他者と伴につながり直すために、そうせざるを得ない時代そのものの要請(背景)があるのだと思えてしまう。
時間のゆとりが失われた現代において、私たちはもはや、過去の不便さを美徳として掲げ続ける贅沢を許されてはいないのかもしれない…
── 変化のうねりと、知的な謙虚さ
「この変化には、どういった背景や理由があって、今後、どのように価値観への変化にも繋がっていき、そこでは何が大事になっていくのだろう」という、一見、面倒臭いかもしれない問い…
その問いと向き合うためには、目の前の新旧の道具を、どちらが正しいかと二元論でジャッジする盾を置き、時代の流れを大きく俯瞰して見つめる、知的な謙虚さが必要なのではないだろうか。
頑なに過去に執着する自尊心を一度手放し、流れる水のようにしなやかに、時代のうねりを受け入れていく佇まい ──
その変化のプロセスにこそ、人間が真に育むべき、深い柔軟性が眠っているような気がする。
── 声なき声を踏みにじらないために
これは、「ハラスメント」という観点が重視されるようになった時から、賛否両論があるのにも、全く別件のように見えて、深く通ずるものがある。
かつては、許されていた?かもしれない振る舞いが、ある日を境に「配慮に欠けるもの」として再定義される。それは、そこに大事な意味や理由があるからに他ならない。
その変化の境界線に直面したとき、声の大きい人によっては「生きづらい時代になった」とか「そこまで、気を使わなければならないのか…」という、懐古的な戸惑いの声がまかり通る仕組みにもなっている気がする。
気を使うというより、尊厳を尊厳として踏まえるのが大事で、そこを飛び越えている自覚がないままだと、線引きも必要になってしまうという、社会的な表れとも考えられないのだろうか。
それを「昭和がー」「平成がー」「令和がー」と、年代で一括りにしてしまうのも何だろうね。
または、心理学用語を持ち出すかのように「過剰防衛」で一括りにしてしまうのも… 通り一辺倒すぎて、冷たくて、どうかと思う。
そのようなハラスメントハラスメントの側面もあるかもしれないし、ハラスメントと言わざるを得ない事実だって、実際にあるのかもしれない。
ただ、とにかく通り一辺倒に一括りにしてしまう論調には、私は何かの危険信号を感じる。
── 変化の過渡期における抵抗
新しい倫理やルールが定着していく過渡期には、決まって古い側の秩序を守ろうとする強い抵抗が生まれる。
それは、かつて洗濯板や手書きの価値を必死に叫んでいた人々の、あの強張った頑なさと、驚くほど似た構造を持っているように思えてしまう。
しかし、その変化の裏にあるのは、ただの窮屈さではないと思う。
その変化の必要性を無視して、かつてのやり方にばかり執着するのは、やはりどこか、世界の解像度の鈍さに加担しているような、やりきれなさを伴う。
声が大きく、分かりやすく、強者にとって都合の良い仕組みのなかで、一体、どれほど無数の小さな違和感が、言葉を奪われたまま消えていったのだろうか。
便利さや新しさ、または何かの変化をただ批判するのではなく、そこにある「個としてのカラーの違い」を認め、傷つけ合わずに生きていくための凪の佇まいを整えておく。
これこそが、時代の変化が私たちが求めている価値観の変容に伴って、肝要なところではないだろうか。
── AIという新しい鏡を見つめて
今日で言えば、AI時代への変化には、何があるのか、となるが、冗談ではなく大事に観ていきたい、行かざるを得ないテーマである。
新しいシステムやテクノロジーが登場するたびに、人は「心が失われていく」と嘆き、不便な時代にあった情緒を惜しむ。
それはまるで、かつて、ワープロの使い方を一生懸命に覚えていったときのような、どこか素朴な、身体の違和感や躊躇いに似ているのかもしれない。
しかし、本当のうねりは、便利さに人の心が失われていくような、そんな一方的な一辺倒のものではないはずで、ここで私たちは、もう一つの見落としてはならない重い現実に、静かに目を向けるべきなのかもしれない。
── 効率化がもたらす他者のパラドックス
機械やAIを使いこなし、目の前の余分を引き算して、効率を極限まで高めているはずの方々。彼らはどうして、以前よりもさらに息苦しく、せわしなく立ち働いてしまっているのだろうか…
下読みや誤字脱字、ノイズの処理をAIが肩代わりしてくれたおかげで、かつては考えられなかった「時間」を手に入れたはずなのに、多くの人々はその空白を埋めるように、さらに多くの文章を書き、さらに多くの情報を処理し、以前より高い目標(タスク)を自らに課してしまっているように見える。
それは私にしても、まさしく他人事ではないような気がする。
それはまるで、せっかく手に入れた凪の海を、もっと早く、もっと遠くへ進まなければならないという焦りから、自らエンジンを全開にして掻き乱しているような、おかしなパラドックスに思えてしまう。
つまり、最中の変遷において、AIという新しい道具を使う時間だからといって、自動的に私たちの心に「凪(なぎ)」をもたらしてくれるわけではないのだという事実だ。
どれほど便利な道具を手に入れたとしても、それを使う人間としての在り方が、常に何かに追われ、他者より優位に立とうとするドーパミン的な渇望に支配されたままである限り、目の前にある余白はたちまち、新たな狂騒と忙しさで埋め尽くされてしまうに違いない。
── 凪のインフラにただ乗りする贅沢
さらに言えば、私自身が享受しているこの凪の静けさすら、そうやってせわしなく狂騒し、社会のシステムを必死に回し続けてくれている他者たちの労働の上に成り立っている、高度に贅沢なただ乗りではないだろうか…という、深い矛盾にも突き当たる。
他者の狂騒に静かに支えられながら、その狂騒を不気味なものとして拒絶する。
そのやりきれない二面性すらも、私は泥臭い自己の姿として、抱きしめるほかないのだろう。
AIが作業を代替してくれたり、創作力を拡充してくれるからこそ、浮いた時間を何に使い、そこでどのような佇まいを保つのか ──
その使い方に、自覚的でありたい。
それは、道具の便利さにただ甘えるのではなく、むしろ、手に入れた余白のなかで「私は、どう生きるのか」を問い直す、知的謙虚さを必要とする、静かな時間なのだと思う。
自分で自分に突き刺していた効率主義という槍を収め、他者の目を介さない、ただそこに在るだけの「ゆったりとした生命の佇まい」を、もう一度、そのまま抱きしめ直す。
AIという新しい鏡は、人間から感情を奪うものではなく、私たちがその使い方と在り方を自分の手で選び取るときに初めて、凪のような余白を心にもたらしてくれる、静かな夜明けの誘いなのだろう。
何もない平穏を、ただの平穏のまま、星空の、あの静かで悠久たる流れに、自らの呼吸を調和させていくプロセス ──
それは、不自然な競争の波に囚われていた自分を、ようやく解放し始める、温かい凪の始まりなのだと思う。